しるしをかぞえる

 

 Mr.Childrenは2011年4月4日に配信限定シングル「かぞえうた」をリリースした。2011年3月11日に発生した東北地方太平洋沖地震東日本大震災)の救援および、復興の資金に充てるための曲としてトイズファクトリーより発売され、収益金は桜井和寿小林武史山形県新庄市出身)が発起人となっているNPO法人ap bank」の基金ap bank Fund for Japan」へ寄付された。アイロニーを含んだ歌詞が特徴のMr.Childrenの歌詞の中でも「かぞえうた」の歌詞はいわゆるキャンペーンソングとも、これまでのMr.Childrenの歌詞とも一線を画している。

 

かぞえうた  さあなにをかぞえよう なにもないくらやみからひとつふたつ

もうひとつとかぞえて こころがさがしあてたのはあなたのうた

 

たとえるなら ねぇなんにたとえよう こえもないかなしみからひとつふたつ

もうひとつとわすれて またふりだしからはじめる きぼうのうた

 

 

 ひらがなが多用されている歌詞からは、たとえば「自己愛に満ちた歌詞」と揶揄されてきたMr.Children特有の自意識を巡るあの「僕」が消失している。ここでMr.Childrenはかなり明確に「かぞえよう」と呼びかけている。桜井和寿によるリリース時のコメントを見てみよう。

 

3月14日、メンバーが集まってのミーティング。

収益を義援金にあてる、そのための曲を作るのはどうだろう?

というアイデアがあがった。

でも曲を作って人を感動させるという行為も、この災害を前に不純に思えてしかたなくて、

どうしたらいいのか何日か悩んでいたのですが、

ふと「かぞえうた」というフレーズが浮かんできて、

それにできるだけ作為的でないメロディーをと考え、この歌に辿り着きました。

タイトルは「かぞえうた」です。

1本でもにんじん、2足でもサンダル... これがご存知のかぞえうた。

そして、この歌の歌詞は、

何もかも失い、悲しみ苦しみに取り囲まれている状態でも、

それでもやっぱり希望を探して数えていけたら... また人間にはそういう力があると信じたい。

そんな希望の歌です*1

 

 

 「かぞえる」自体はこれまでもMr.Childrenの歌詞に頻出する単語だった。Mr.Childrenの初期の代表曲である「虹の彼方へ」での「数えきれない夢」、「旅人」での「数え切れぬ絶望」などなど。だがこの「かぞえうた」ではそれが「かぞえきれない」(=countless)ではない。つまり、数え切れないほど多い(=countless)の意味の形容詞「かぞえきれない」がこれまでのMr.Children的な「数えきれない」であって、「かぞえうた」の「苦しみに取り囲まれている状態」で「希望を探して数え」る行為そのものとは性質が異なる。そして重要なのは「希望」はあくまで探す目標であり、ここで数えているのは希望ではないということである。では桜井の発言にある「そういう力」とはいったいどのようなものなのだろう。

 震災から一ヶ月たってすぐに桜井は「かぞえよう」と呼びかけている。一体何をどうやってかぞえたらいいのだろう?そもそもこの歌の中で「さあなにをかぞえよう」と自ら問いを投げかけている。桜井のコメントを素直に受け取るならば「かぞえる」と「希望を探して」いくことがイコールで結ばれているようだが、ここで簡単に納得もできない。なにより「かぞえうた」には震災の復興支援の曲でありながら、いわゆる「繋がろう」「前を向こう」「明日に向かって頑張ろう」といった単語が含まれておらず、その手の曲と一線を画したどこか異様な印象がある。なにより2011年3月11日から数ヶ月の間はそうした前向きの言葉が復興ソングなどの歌に限らず、世間には溢れていた。

 『SENSE』(2010)から「かぞえうた」が収録されたアルバム『(an imitation)blood orange』(2012)までの期間、Mr.Childrenは雑誌等によるインタビューを全く受けていない状態にあった。当時それは戦略的に意図されたものであり、東日本大震災があったとはいえ、もっとも作品に対して寡黙であった期間に「かぞえうた」はリリースされた。そのため上記の「かぞえうた」のコメントは2010年から2012年の間での数少ない公式からの楽曲にまつわる文言となっている。ならば、ここで「かぞえる」がMr.Childrenの歌詞の中でこれまでにどれほど頻出し、重要視されていたかを考えていこう。むしろ近年のMr.Childrenはこの「かぞえる」行為をモチーフに何度も歌詞を書いてきたのではないだろうか。

 たとえば2000年代以降のMr.Childrenの代表曲のひとつである『HANABI』は「かぞえられなくなる」状況からはじまっていた。

 

 どれくらいの値打ちがあるだろう

 僕が今生きているこの世界に

 すべてが無意味だって思える

 ちょっと疲れてんのかなぁ

 

 

 「どれくらいの値打ち」が「今生きているこの世界」にあるのかがわからなくなっている「僕」。そう考えている今の「僕」を「ちょっと疲れてんのかなぁ」と客観的にみることができるだけの、現実をやや引いた目で見つめる「僕」の視点もぎりぎり留保されている。日々の忙しさの中でこの世界の「値打ち」(価値と歌われていないところに注目したい)を把握するのが不可能になるほど、実態が掴めなくなる状況(世界の解像度が把握できない)にいることが歌い手との間で共有される。

 サビに至り、アイロニー混じりに「どれだけ愛する」かが問われる。

 

誰も皆 悲しみを抱いてる

だけど素敵な明日を願っている

臆病風に吹かれて 波風がたった世界を 

どれだけ愛することができるだろう?

 

 

 悲しみを抱きながらも「素敵な明日」という具体性のない単語に向き合ってしまう「皆」。「ちょっと疲れてる僕」もいつの日かそこへ埋没していくことになるだろう。それこそが不幸の元凶でもある。だがそれは「誰も皆」であることこそが凡庸な絶望を読み変える契機にもなりうる。

 

もう一回 もう一回

もう一回 もう一回

 

 

 どれだけ世界を愛せる?、その問いを誤魔化すように繰り返される「もう一回」。いったい何をもう一回なのかは同定されることのないまま、「もう一回」が反復されていく。

 

もう一回 もう一回

もう一回 もう一回

僕はこの手を伸ばしたい

 

もう一回 もう一回

もう一回 もう一回

何度でも君に逢いたい

 

もう一回 もう一回

もう一回 もう一回

君を強く焼き付けたい

 

 

 「もう一回」とはこの手を伸ばすことなのか、何度でも君に逢うことなのか。そのどれでもあってどれでもないだろう。何かを直接指し示すことを拒むように歌の中で「もう一回」のテンションは高まり、そしてズレていく。むしろその反復による運動それ自体を強調しているかのようだ。だから繰り返される最後の「もう一回」はいよいよ具体的な行為を示されないまま、哀惜堪えた声で叫ばれる最後の「もう一回」によって途切れるようにして楽曲は終わる。この「もう一回」することで何が変化しているのか。いや何も変化してはいないだろう。なぜならもう一回はこの後に起こる。「もう一回」と口ずさむことでたしかに反復すれども、まだもう一度手を伸ばしたわけでも、何かを捕まえたわけでもない。繰り返すが、わたしたちが(おそらく忘年会や新年会のカラオケのなかでイヤというほど?)口ずさんできたこの「もう一回」は「ある具体的な何か」を指し示しているのではない。つまりここで行われる純粋な運動としての「もう一回」こそ、「かぞえること」のバリエーションではないだろうか。そして「もう一回」を繰り返し続けること自体が「波風がたった(ように見えてしまう)世界を愛すること」になりうると歌われているのではないだろうか。この曲は「HANABI」と題されていながら「決して捕まえることのできない花火のような光」と歌われているように本物の「花火」についての、ましてや夏の歌でもない。そして何より絶対に捕捉することができないような、捕まえた途端に消失してしまって、見えなくなっても「もう一回」と呟いてその運動を再開させずにはいられないような光。それにもかかわらず「僕」は花火「のような」光に向かって手を伸ばしたい(伸ばすことを繰り返したい)と願う。それこそが世界を再認識し、解像度を上げるための方法だと歌っているのではないだろうか。

 だからそんな運動を続けていくための身体に流動性が求められるのも必然であるように思われる。

 

滞らないように 揺れて流れて

透き通ってく水のような

心であれたら

 

 

 このパートはここまでの流れを急に切断し、こちら側のあり方を歌っているため「HANABI」の中でもかなり浮いている。単に「流される」こと自体を肯定しているのではもちろんない。他罰的に他人に流されろというメッセージではなく、自らうまく流されることを選びなおせるような心のありかたをここで提案しているのだ。なぜならそれこそ「もう一回」を繰り返すためであり、うまく「揺れて流れ」るためにまず世界を捉える器である「僕」が透き通って透明である必要があるからだ。もう一回、もう一回と数え続けるたびに、揺れ動き続ける運動。それは「かぞえきる」ことに失敗し続けているということだろう。しかしそれは失敗であるはずなのにどこか心地良い。「かぞえうた」に戻ろう。

 

もうひとつとわすれて またふりだしからはじめる きぼうのうた

 

 「かぞえうた」はそのなかで失敗を孕み、またかぞえなおすことを歌い上げていた。そしてそれこそが力なのだと。「かぞえうた」と「HANABI」はまるで違った楽曲でありながら、実はかなり近い感覚を、あるいは同じ行為を歌っているのではないだろうか。



 自らを小林よしのりの「『救世主ラッキョウ』に似ているところがある」と語り、『everybody goes』を「ミスター・チルドレンの『ゴーマニズム宣言』だ!」「単行本を買ってスタジオに持って入ったり…」などと一時期の桜井和寿小林よしのりに共感していたことはよく知られている。だが、それはほんの一時期に過ぎなかった。宮台真司は以下のように指摘している。

 

ミスチルの『ヒーロー』という曲は、「もしも誰か一人の命と引き換えに世界を救えるとしたら、僕は誰かが名乗りあげるのを待っているだけの男だ」という歌い出しです。その上で、自分は反戦ヒーローになるよりも、妻と子供を守る小さなヒーローでいたいと歌い上げます。これはさらに高度なアイロニーです。余程読解力が高くないと私生活主義ソングだと受け取ってしまいます。ポイントは「だけの男だ」にある。ここに暗号を解くためのパスワードがあります。社会背景を知らないと暗号は解けません、少し前までミスチル桜井和寿は、小林よしのりのファンでした。小林の「私生活に閉じこもってエゴを満たす堕落した生活を脱して、公に貢献せよ」というメッセージに共感していました。そういうメッセージに近接する歌詞を書いたりもしています。確かにそれを否定する歌なのです。「私生活はエゴでくだらなく、公への貢献が崇高だ」はありえないと歌っている。

 しかし「だけの男だ」に込められているのはアイロニーです。桜井は戦争で苦しむ人たちを助けるNPOを立ち上げました。解読するとこうなります。「公への貢献は大切に決まっている。でもそれに比べて私生活の価値が劣るなどということは絶対ありえない。私生活の価値こそが至上であることを知ったうえで、公に貢献するしかありえない。それ以外の公は全部嘘だ」。ここまで解読しなければ、この歌を理解したことにはなりません*2

 

 

 ここで宮台によって指摘されている小林よしのり的な個と公の二項対立から「個を等閑視しない公」という図式は「HERO」に限らず2004年以降のMr.Childrenの多くの歌詞に含まれている。たとえば「掌」、「sign」、「しるし」…。興味深いのはそうした楽曲群において(まさにタイトルからわかるように)「個」を規定していく「しるし」が歌詞の中心になっている。「掌」のなかで桜井和寿は「ひとつにならなくていいよ」とくり返し歌う。わたしたちは指紋によって、自分が自分であることを認識すると同時に、互いが異なる人物であることを確認する。つまりわたしたちは「しるし」によって互いが「かぞえられる」ものになっている。だがまだ「認め合うことができれば」と限定されてはいる。ここで先ほど宮台真司が俎上に載せていた「HERO」の歌詞について考えていきたい。

 

残酷に過ぎる時間の中で

きっと十分に僕も大人になったんだ

悲しくはない 切なさもない

ただこうして繰り返されてきたことが

そう こうして繰り返していくことが

嬉しい 愛しい

 

 

 反復行為そのものへの愛。逆に言うならば愛することは反復することであるとも言えるかもしれない。それはMr.Childrenの歌詞に親しみのある人なら誰しもが理解することだろう。愛し合うこと=反復すること。ならば極端な話、Mr.Childrenの歌詞世界では人間性を求めて生きることよりも、完全な自動反復機械を模範として生きていくことが理想の態度として求められているのだろうか。答えはイエスである。それは完全に歯車になれるものならむしろなっていたい(「くるみ」)、飲み込んで吐き出すだけの自動販売機にこそなりたい(「Worlds end」)などの願いに連なっていく。Mr.Childrenのこういう歌詞をとても「ロック」だと思う。人が本当に自動的な機械になることはできない、むしろ根源的な不幸がそこにあると知っていて桜井和寿は少しのアイロニーを込めて歌い続けている

 2018年に発売された19枚目のアルバムに『重力と呼吸』と重々しい名前をつけていたことを思い出そう。「重力」は最初から地球上に存在するものであり、「呼吸」もまた自らの意志と関係なく行われている。だが物は自然に落下し、意識的に呼吸をかぞえつづけることはできない。これは共に認識の問題である。機械的とも受動的とも違う、認識しなければ決して気にすることもないこうしたものを、たとえば「自動的」なものとここで仮に名づけるとしよう。それらはさまざまな形でMr.Childrenの歌詞に偏在している。たとえばこれもまた代表曲のひとつである「しるし」には特にそうした面が強く出ている。

 

ダーリンダーリン いろんな顔を持つ君を知ってるよ

何をして過ごしていたって 思いだして苦しくなるんだ

カレンダーに記入したいくつもの記念日より

小刻みに 鮮明に 僕の記憶を埋めつくす

 

泣いたり笑ったり 不安定な想いだけど

それが君と僕のしるし

 

ダーリンダーリン いろんな角度から君を見てきた

共に生きれない日が来たって どうせ愛してしまうと思うんだ

 

 

 NHK教育テレビで2009年に放送された『佐野元春のザ・ソングライターズ』内で佐野元春と対談した際に「しるし」の歌詞について佐野元春の問いに対し以下のように語っていた。

 

これまでにやったな、と手応えを感じた曲はありますか?

 

 

 

しるしですね。とにかく別れの歌なのか。恋愛がうまくいってるのかどちらともとれるものとして作りたくて、それがうまく行ったなと思うし、造り手としては細かいことなんだけど、「共に生きれない日が来たってどうせ愛してしまうと思うんだ」、の「どうせ」って言葉を使うのが、自己満足ですけど、うまく言えたなって。

 

 

 

 なぜ「どうせ」の一語にこれほどまで自信を持っているのだろうか。たしかに「愛する」でも「愛している」でもなくて「どうせ愛してしまう」が最後に発せられるのは異常事態のように思える。これが100%悲観的に聞こえないのが不思議だ。どうせ…と諦めるでもなく、自動的に(流れるように)愛してしまうと歌うこと。ここで「どうせ」の一語はかなり強烈なギリギリの言葉として機能している。つまり、ここにはもう一段階が存在している。その「どうせ愛してしまう」ことを知りながら「思うんだ」とはっきり歌うこと。この「思う」こそが重要であろう。「思う」とある一時点ではっきり認識していること。歌の主人公が自らの「どうせ」的な自動性に気づいていること。ここで歌の主人公は愛して「しまう」ことを選択している。いやここが難しいだろう。この「どうせ愛してしまうと思う」ことを選択と言ってしまっていいのだろうか。少なくとも機械的な「どうせ」であることを能動的に受け入れ、またそれを認識している。これは単なる「すごく愛している」よりも歪でありながら、強い印象を与える表現だ。さらに読み解くためにいったい「どうせ愛してしまう」ことになる「共に生きれない日」とはどのような状況だろうかを考えていきたい。ヒントは少し前の箇所にある。

 

 「いくつもの記念日より小刻みに鮮明に僕の記憶を埋め尽くす」

 

 

 

 記念日<君(あるいは君にまつわる事象すべて)となり、埋め尽くされている状況。それは「HANABI」にあったような「僕」がちょっと疲れて「かぞえられなくなる」状況と似ているようで違う。この一行で重要なのは「小刻み」である。記念日はかぞえることができるのだろうか。いや、ある日付の一時点はかぞえることができないだろう。例えば20歳の誕生日は誰にでも一度しか訪れないだろう。ここで「僕」は「しるし」を「小刻みに」「かぞえている」。「小刻み」で「鮮明」になる状態にこそ比重を置いている。桜井和寿はまさにこの部分を強くシャウトしながら歌う。

 「共に生きれない日」とは「違うテンポで刻む鼓動を互いが聞いてる」状況が崩壊することではないだろうか。つまり互いが完全に一つであると、同じものであると思ってしまう状態を指しているのではないだろうか。「掌」での「ひとつにならなくていいよ」がここでも反響している。その上でかぞえられなくなっても、続けてすぐに「どうせ愛してしまうと思う」と言えること、それは「HANABI」の「波風が立った世界をどれだけ愛することができるだろう」と同じ地平を指している。

 最後にもう一度「かぞえうた」に戻ろう。

 

たとえるなら ねぇなんにたとえよう こえもないかなしみからひとつふたつ

もうひとつとわすれて またふりだしからはじめる きぼうのうた

 

 

 かぞえられないこと、あるいはかぞえられなくさせていた状況が3月11日以降の世界には溢れていた。たとえばそれは2011年3月11日という日付そのものがあるだろう。2011年の3月11日はかぞえられない。テレビ画面に表示され続けていたガイガーカウンターによる放射線量もそうだった。わたしたちは放射線測定器の指示値をかぞえること、ましてかぞえることを失敗しなおすことなどできない。そこには日付と同じく、単なる数値が存在するのみである。だからこそ桜井和寿はかぞえること、かぞえなおすことを歌う。

 

決して捕まえることのできない花火のような光だとしたってもう一回、もう一回

 

 

 

 重要なのは数が大きくなっていくことではない。「もうひとつとわすれて ふりだしからはじめる」こと。「小刻みに鮮明に」もう一回、もう一回と唱え続けること。。かぞえることは愛することに等しくなっていくが、それはひとつになることでは決してない。

 

 

 

・補足 

 

 2020年3月4日に発売された『Birthday/君と重ねたモノローグ』に収録された楽曲「Birthday」の歌詞はここまで見てきた流れから考えると大変興味深い。サビで歌われる歌詞ははここまで見てきたような「反復すること」「かぞえること」の総決算のようだ。

 

It's my birthday 

消えない小さな炎をひとつひとつ増やしながら 

心の火をそっと震わせて何度だって

 僕を繰り返すよ そう いつだって It's my birthday

 

 

 注目すべきは以下の歌い出しのフレーズである。

 

しばらくして気づいたんだ、本物だって

 

 

 

 どっちなんだろう。本物を本物と気づいたのか、偽物がもはや本物と気づかないでいるぐらい見分けがつかなくなっているのだろうか、あるいはそれを知っていてあえて「気づいた」と歌っているのだろうか。









*1:Mr.Children新曲配信「希望を探して数えていけたら」(最終閲覧日2020年12月15日)

https://natalie.mu/music/news/47249

*2: 宮台真司編『教育真論』株式会社ウェイツ、2004年、177ページ。